福祉と生活保護と最低限の自由について

どうもこんにちは、如月翔也です。
 今回Twitter(現X)で老人をまとめてヘイトする発言を見て「老人優遇制度は改変すべきだが老人をグルーピングしてヘイトするのはヘイトに当たるので良くない」という概要のポストを行ったところ予想外の反応を得る事ができ、色々考えさせられたので考えをまとめて投稿しようと思います。
 今回書くのはあくまでの今の時点での私のスタンスについてであり、主義主張・考えの話であり、基本的には「私はこう考える」というスタンスの表明なので法的な理論付けがあるわけでもなく、体系づけて学習した成果ではないので論文でもないんですが、スタンスの表明として書き記します。

基本的に私の話はくどいのですが、自分の考えを表明するのは人に共感して欲しい、自分の意見に寄って欲しいという願望があっての事なので、理解レベルを最低限にあわせると話がくどくなるのは仕方がなく、あと細かい部分を話す事でみなさんからより詳細な反応を得られるので、得られた反応で受け入れるべき反応は受け入れていくつもりですし、逆にどれだけ大声で言われても取り入れるべき価値がないと思った場合は取り入れないので、その点はご承知おき下さい。
 ただ、一つ言いたいのは、私は「人に対して自分に寄って欲しい」と思っているので、当然の結果として人に説得されて「自分が他人に寄る」事を否定しません。より良い意見があればそれを取り入れて自分の価値観をアップデートしたいと思っていますし、対話する事で両者の価値観がより良い方向にアップデートされるのであればネットの広大な海の中で情報を受け取って発信する価値があると思っていますので、その前提で読んでいただけると嬉しいです。私は自分の変節を恐れません。

なお、今回の文章はこのブログの中でいまだかつてないほど長い文章になる予定です。触れなければならないと思う範囲が広大だからです。途中でついてこれなくなったら「価値がないな」と思って離脱して頂いて構いませんし、SNSで「つまらん文章を読んだ」とポストして頂いて構いません。
 ただ、それだけの文章を紡ぐ前提で取り組むべき課題だと思っており、もし少しでも琴線に触れるものがあれば幸いです。
 では、始めたいと思います。

まず最初に

最初に、連帯を表明します。
 絶望がある事を理解します、自暴自棄になる事を理解します。抱え込む苦しみを理解します。不条理に怒る気持ちを理解します。不公平に憤る気持ちを理解します。苦悩に絶叫する気持ちを理解します。進めないもどかしさを理解します。
 全て認めて、許容します。
 その上で、キツい事を言います。
 苦しくて嗚咽するのは否定しません。立ち止まって絶叫する事を否定しません。ただ、厳然として、目的地に移動するのは自分たち「みんな」でしなければなりません。一緒に移動しましょう。
 立ち止まって痛む事を拒絶しません。一緒に歩ける時に、一緒に歩きましょう。
 抽象論かも知れないですが、私も苦しんでいますし、私も虐げられる立場です。私はインテリゲンチャではありません。プロレタリアートではありませんが、差別を受ける側の人間です。
 しかし、私はそれでも受け入れ、理解し、共に歩く事を提案します。

発端

発端は簡単なひとことでした。
 老人福祉において「入浴介助」は贅沢である、という指摘を見たのです。
 個別指定の話ではなく全体論の話だと受け取ったので、私は「入浴介助は清拭よりも簡単な場合があり、入浴介助の全てが贅沢であるとは思わない」点と、あとこれはもしかしたら意見が割れるかも知れないんですが、「風呂に入るのは人権ではないの?」という部分を考えてポストを返しました。
 世界的には風呂に入るのは日本人くらいだ、と言われる話なんですが、逆に日本では風呂に入っていない人はヤバい人であるというのは社会的合意のレベルで認識が浸透していると思うので、私としては風呂に入るのは人権、それを否定する人は「自分が一生風呂に入れない事を許容できるのか?」という疑問を持ち、それもポストしました。

結果

その結果、今まで私のポストがリーチしている層を超えて色々な方からご意見をいただく事ができ、一応全部に真摯に対応したつもりなんですが、抜け漏れがあったらごめんなさい。
 全部個別でお話をした結果としては、「今の老人福祉は過剰であると受け止められている」傾向がある事、「老人福祉については仕組みの問題であり仕組みを変える事については誰もが合意である」事がわかりました。
 「入浴介助は贅沢である」という言葉は、それそのものを指摘しているのではなく、社会的な仕組みとして「今の老人福祉のシステムが恒常化すると下の世代にツケが回るので早い段階で処理して欲しい」というニーズだったのだと理解しています。
 「入浴介助は贅沢である」と指摘している人も、「公衆衛生における清潔保持の観点から週2回程度の清拭は必要経費」という点にはご理解を頂けたと思っていて、そして全身清拭については介護度の低い人については全身清拭よりも見守り介助の方がコストが安い場合がある、その場合にはコストの観点から入浴が否定されるものではない、という結論に至れたものだと考えています。
 まあ残念な点は、風呂は人権であるという部分は握れなかったという点ですが、これについてはニーズにおいて必要な介助を否定するものではないという合意に至れたものと思っていますので、ニーズにおいて仕組み上介護保険は自分でニーズを組み立てて計画を作成する事ができるので、風呂が人権だと思う人は介護計画に入浴を入れる事は否定されないので良しとしたいと思います。
 ここでポイントになるのは、今の仕組みは手続き上正しい仕組みなので、今の仕組みを利用するのは「現時点では」否定されない部分です。もちろんこれが過剰であると思うのが社会的合意であれば仕組みを変えて過剰ではなく適切な範囲での仕組みを組み上げていく必要がありますが、これは後でお話しますが別レイヤのお話です。

問題

ここまで書くとスムーズに物事が進んだように見えますが、実際はかなりの人数とかなりのやりとりを要しました。
 これを典型化するのは失礼かもしれませんが、皆さんの意見の中央値というか(そもそも「反応した人の中央値」なので一般的な中央値ではありません)意見の共通点としては、「氷河期以降の世代は一方的に搾取されており、搾取関係を解消するためには老人の切り捨てが必要」という意見でした。
 これについては私も氷河期世代でかつ弱者の立場なのでとても共感できるのですが、この意見を分解すると3つの問題があります。「氷河期以降が棄民である事」「搾取関係の解消が必要である事」「非自覚的な加害者である老人は切り捨てるべきであるという事」の3点です。

氷河期以降が棄民である事

まず大問題として、氷河期世代と言われる団塊ジュニア以降の世代については、棄民である点についです。
 選挙のボリュームゾーンとして団塊ジュニア以降は票数が少なく、票田として適切ではないために政治は団塊ジュニアより前の世代を対象とした政治を行うのが常になっており、そのために氷河期世代以降は本来得られるべきであった便宜や利益に預かれていないという点です。
 これは私は否定できません。政治に求めた結果を得られず政治を諦めて投票をやめたために余計に票田にならず政治のスコープから外れるという悪循環はあるものの、ただ単純に「数」という点で氷河期以降の世代は大きなハンデを負っており、政治があえて氷河期以降を無視する意向を示している以上、氷河期以降の世代は救われていません。完全に棄民です。
 これは政治の問題であると同時に、民主主義の限界点であると考えていて、数で勝てない以上民主主義ではどうしようもないのです。
 せいぜいできるのはロビイング活動でマジョリティから譲歩を引き出して少しずつ権利を勝ち取っていくしかできないと思います。
 しかし、そのあがきをしている人はどれくらいいるでしょう?というのも大事な着眼点だと思います。

搾取関係の解消が必要である事

これは事実かどうかはあんまり関係ないんですが(まあ事実だと思いますが)、氷河期以降の世代は上世代のツケを一方的に払わされており、搾取関係にあるという点です。
 問題なのは搾取されている事ではなく、「納得感のある搾取」ではない点です。誰の目から見ても「今の搾取が自分の将来の繁栄を約束する」ものに見えない点が問題なのです。例えば、年金については本来積立型で運用していく方向性にスライドしなければならないのに、支える年代の方が少なくなっておる現状においても「今徴収しているものを今配っている」という状態であり、将来的な破綻は目に見えています。
 将来的にメリットがないのに今我慢しろ、というのは無理筋で、納得できないのは当然です。
 介護保険についても基本的には40歳以上の人の互助ですが(半額公費が入っているので完全互助ではありません)、健康保険以上に納得感のある運用ではなく(健康保険については解体して保証プラン型の制度に移行すると金持ちは一時負担が可能なので安いプランで済ませられ、貧乏人は一時持ち出しができないので一番高い全保証プランを選ばざるを得ないので貧乏人が更に損をする構造になるので、国民皆保険制度については一定の納得感があるものと考えます。ただし、老人の保険負担割合と限度額設定については特定の層の利益を誘導する構造なので私は反対です)、自分が40代になった時に利益を得られるのかと問われると、構造上不可能である事は否定できません。
 何をどうやっても、少ない人数で多い人数を支えるのは無理なんですよね。ただ、できる範囲で機械化する事で負担を減らす方向性は模索されるべきであり、一概に現制度の変更によって事実の吸収が不可能であるとは言えないと考えています。

非自覚的な加害者である老人は切り捨てるべきであるという事

そしてここが一番の問題と考えているんですが、「老人は非自覚的な加害者であるので切り捨てるべき」と考える意見が非常に多かったです。
 これについては先に建前を言わせて貰うと、老人というのは属性なので、属性で囲って「一方的に切り捨てるべき」というのはヘイトであると考えます。
 「非自覚的な加害者であるので有罪である」という前提をつける事でヘイトを回避しようとする心情が見えるのですが、老人は制度を利用しているだけで、全ての老人に明確な悪意があるとは結論づけられません。問題なのは普通に運用したら破綻する制度であり、納得感のない制度を運用して結果として利用者である老人にヘイトを貯めさせている「制度」そのものが悪いのです。もっというと、そんな制度を平気な顔をして運用している「政治」の問題です。
 この問題、「政府は老人に媚を売っている、だから老人は悪だ!」という話に集約されると思っていて、しかし政府というのは国民に媚を売らなければならないものです。国民に便宜を図るのが政府で、結果として老人が優遇されているのはただの「結果」であって、老人を憎むのは筋が違います。国民全体に媚を売って国民全体が富む社会になるのであれば政府の媚は正しいものであって、今問題になっているのは全体に対して行われるべき奉仕が老人に向いているという事です。
 憎むべきは老人ではなく政治・政府です。

あまりズバッと言うと怒られるのですが、みなさんが老人に対して怒っているのは、政府の隠れ蓑にされているからなんですよ。本来憎むべき・修正されるべきはシステムであり、システムを作る政治であり、政治を行うべき政府なんです。
 対象を憎むあまり、「老人は数が多いから減らさないと若者が見捨てられる」というお話をする人がいますが、違うんです。「老人は数が多いからスコープされる」のと「若者は数が少ないからスコープされない」という別問題で、国民は等しく幸福である権利があります。
 国民を等しく幸福に出来ないのは政治の怠慢であり、もちろん皆が幸せになるために調整を行って結果的に老人の権利が縮小されるのは許容されるべきですが、助けを求めるにあたって「Aがワリを食ってもいいからBを助けろ」と「Aがワリを食うようにしてBを助けろ」では話が違います。後者は助け方を指定しているので助かる可能性を狭めている発言であり、本来求めるべきなのは「氷河期以降の世代を救え!」であるはずです。老人が割を食うのは結果として許容されるだけであって、そもそも老人の権利を縮小するのは主目的ではないはずです。
 重ねて言いますが、結果として老人が割りを食うのは私は許容の範囲というか、当然だと思っています。しかし、「老人にワリを食わせて氷河期移行世代を救え!」はブレた発言だと考えます。

権利主張は当然行うべきですが、それはヘイトを伴ってはいけません。ユダヤ人をブチ殺して財産を国民に配れ!というとヘイトでしょう?公共の利益はヘイトを正当化しないんです。
 ちなみになんですが、ツイッターではこのお話が炎上して、とある人に「障害者は年金を貰っているので盗人である」という脳天がブチ抜かれるようなヘイトを見たんですが、通報したらツイッターに「問題はありませんでした」と言われたので、ツイッターの精度は終わっていると思います。これを真顔で言える人って正直「そっち側」の人間では、と思ったのですが、指摘すると私がヘイトを言った事になるので黙ってました。

というわけで3つの問題が出ました

というわけで3つの問題が出ましたが、これ、お気づきでしょうか?
 ご意見から辿ると、完全に政治のミスリードを受けて老人にヘイトを流しているんですよ。
 みなさん色々と考えて、制度設計の問題から予算を出すには老人をなんとかしないといけない、という使命感からお話されていると思うんですが、もちろん今の状態は健全とは言えないんですが、問題の主体は制度であり、制度を設計する政治なんですね。
 政治が「持続可能」かつ「実現可能」なコストを計算して、合議にかけて、その上でできる事とできない事のふるいをかけて、全世代に納得感がある制度を作って運用するべき問題なんですよ。主体は老人じゃなく政治なんです。
 ここで政治のリードに従って老人にヘイトを行うと、ご自身がヘイト持ちになってしまう上にヘイトは基本的には犯罪のたぐいなので良い事ではなく、そしてヘイトを叫んでいる間は物事が進まない(政治から見ればスケープゴートにたかっているので問題の本質に気づくまでは先送りで問題ない)という事なので、環境の改善には寄与しないんですね。

ここまでは前置きです

ここまで書いて、ここまでは前置きです、というサプライズをします。
 老人介護問題は政治マターである事はご理解いただけましたでしょうか?
 予算の執行は国民の監査の元で政治が行う事なので、手続き上必要なのは政治の執行しようとする予算に対して反対を上げる事です。

で、ですね、ここから「福祉」と「生活保護」と「最低限の自由」についてのお話をします。
 これは大きくくくると「国民の求めるべき最低限ってなんだ?」というお話です。

例えばですね、生活保護っていうのは「必要最低限の文化的生活」を保証する制度です。では、必要最低限の文化的生活ってなんだ?というお話です。
 生活保護っていうのは、それ以下の待遇の国民はは全て受ける事ができる権利なので、「最低限」の規定ってかなり難しい範囲です。
 ただ単純に考えると「みんなの平均で良くね?」と思いがちですが、「それ以下の待遇の国民は全て受ける事ができる」権利なので、平均値をそこに持ってくると、平均値以下の人が全員受けに来て、平均値が押し上げられるので更に受けられる人が増え、これを繰り返すと最後の1人以外は全員受けられる事になります。それでは制度として破綻していますよね。
 なので、平均値を「参考」に、各自治体が必要なものを算出して、「最低限」を規定します。
 これが、「最低限」の基準であると私は考えます。迂闊に常人の平均値を持ってくると破綻が見えるので、世相を繁栄すべく平均値を参考に是々非々で検討して算出すべきだと思っています。

同じく、私は福祉の「最低限」も平均を参考にした是々非々の算出であるべきだと思っていて、健康保険適用は「最低限」の範囲であると考えます(全ての国民が治療を受けられるべき医療が健康保険適用の範囲であると考えるという意味です)。また、老人福祉についても対象が老人なだけで特別扱いする必要性はないと考えていて、平均を参考にした是々非々の算出であるべきだと考えているのです。
 そういう意味では老人の湿布サブスクには否定的なスタンスですし、医療費は3割負担にすべきだと思っていますし、上限額も上げるべきだと考えていて、そして老人介護のシステムにメスをいれるのは賛成のスタンスです、僕は老人の味方ではありませんし、若者の敵ではありません。単に国民が区別なく幸せになるべきだと考えています。

そして、「自由」についても「最低限」は平均値を参考にした是々非々の検討の結果であるべきだと考えています。人間の権利は無限に保証されるべき、という原則論はありますが、事実として公共の福祉、実現性を考えると、人間の自由の範囲はそう広くないと考えます。
 ただ例外だと考えるのは内心の自由です。これは制限を受けませんし、受けるべきではありません。
 本質論をするとこのブログのこの記事をあと3本くらい書ける量の話になるので割愛しますが、内心の自由を制限すると「お前はこう思っているに違いないから処刑!」がまかり通るから駄目です、というお話です。
 ただ内心の自由と表現の自由には差があって、内心は何を思っていても責められませんが、表現はそれを行う事は能動的な行動なので発言・表現には責任が伴い、表現をする事自体は自由ですが、その表現が批評にさらされない事を約束するものではありません。
 これは単純に考えて頂いたらわかると思うんですが、表現が完全にフリーで責任を問われないのであれば私は今回ブログを書くに至る来歴を辿ってはいないわけで、表現は「した結果」がついてきます。
 当然ながらSNSのポストも表現の一種なので、自由にして良い反面発言した事には責任が求められます。
 「内心は違った」というかも知れません。しかし、内心は自由ですが発言は責任を伴うので、失敗したと思ったら撤回して謝罪するしかありません。

着地点として

で、ですね。福祉にせよ生活保護にせよ最低限の自由にせよ、結果的に判断をする主体があってそれが決まる、という私の主張はご理解いただけたでしょうか?
 そうすると、これらは判断する主体が作る「仕組み」によって決まるもので、その主体は政治にあるという事が導き出せると思います。問題のコアって政治なんですよ。
 僕らはいつも誘導されて政治から目を逸らすんですが、問題の中核って概ね政治なんですよね。
 もちろん、政治に不信感があるのは理解します。今の政治がボリュームゾーンである老人を重視した結果僕ら氷河期移行の世代がしわ寄せを食っているわけなので政治なんか知るか、という感覚はむしろ普通の事だと思います。
 しかしですね、人類って、民主主義以上の「意思決定」方法を未だに生み出せてないんですよ。他に対比されるのは専制政治だけで、専制政治は君主に全部の責任があり、逆に言うと民衆には責任がないので民衆には何も決められず(まあ革命は起こせますが)、結果としては革命を起こして民主主義に至るしか民衆が責任を持って自分を管理する方法はないので、これは避けられない問題なんですね。
 で、結論から言うと、僕ら氷河期以降の世代は数が少ないので、数の対決に持ち込むと勝ち目はありません。しかし、民主主義には「数で決定する」という結果論がありますが、建前として「全国民の意見に耳を傾ける」建前があるので、ロビイングを行ったり、政治家を取り込んだりちゃんと選挙に行く事で「一定の票田として見なして貰う」方法を行う事で、マジョリティから譲歩を引き出すのは不可能ではありません。
 無論今のボリューム世代が全滅するまで待ってから選挙に打って出れば勝利はできるでしょうが、みなさんの意見の一致するところは「そこまで待っていられない」だと思うんですね。
 だとすると待つ選択肢はないので、革命を起こすか政治で決着させるしか方法がないのです。ただ、民主主義において革命を起こすと移行先は専制政治なので自分たちが助かる可能性が高いとは言えず(結局専制政治もボリュームゾーンは無視できず、そして専制政治なので容赦がなくなる)、良い方法ではないので、結局残された方法は「ちゃんと政治に参加して地道に変えていく」しかないんですよ。

もっと即効性が欲しいのは十分理解していますが、現実解としてそれしか方法がありません。速度を上げたければ取り込む速度を上げるしかなく、現状を嘆いている暇があれば一人でも多く政治に参加させるしかないんです。

ちなみに、僕は特定の政党を支持していないので、みなさんを焚き付けて特定の党に入れさせたいニーズはありません。僕は毎回の選挙で候補者の主張を検討し、是々非々で考えた上で「最も自分の考えに近い候補者」、それがいなければ「比較的最悪から一番遠い候補者」に投票しています。みなさんもぜひ自分の意見を参考に一票を投じていただけるといいと思います。

結局何が言いたいかというと

結局ですね、何が言いたいのかというと、今追い詰められて老人を叩いている人、それはまず老人という属性を叩いているのであればヘイトなのでやめた方ががいいですよ、という事と、問題の本質は政治の無責任に寄るミスリードであるという点で、怒るべきは政治に対してであって老人に対してではない、という事です。
 無自覚なヘイトは最終的にナチを再来させるので危険であるのと、自分が正義であるという義憤は簡単に利用されるという事、拳を振り上げる相手を間違っていませんか?という事を言いたいのです。

最初に書いたように、私は絶望を理解しますし、断絶を理解しますし、義憤を理解します。
 行き場のない苦しみを理解します。
 綺麗事じゃない、助かりたいんだ、という気持ちを理解します。

しかし、間違った事を間違った方法では直せないんです。
 正しい事は正しい方法に寄ってなされないと正しくなく、結果的に上手く着地すればそれでオーケー、という結論に飛びつくと、結局本来なおるべきだったものがなおらず、禍根が次世代に残る上に、自分たちは助かりません。
 もう一度でいいので、貴方は本当に老人を憎むべきかを考えて見て下さい。
 その上で政治の問題ではない、老人の問題だ、と主張されるなら私の力不足で申し訳ないんですが、マジョリティの問題は基本的に政治の問題で、政治を避ける態度は僕ら氷河期以降の世代が「上から押し付けられてきた」態度である事を思い出して欲しいんですよね。
 氷河期より前の世代は連合赤軍なんかで散々政治に参加してきて、いざ就職する段階になったら自分たちのした事をなかった事にして、「政治には関わるな」って言い出したんですよ……。
 私達が政治に興味を持てないのって、本当に私達の主体ですか……?

約10000文字の長文となりましたが、全然全部語れた気がしません。ただ、これ以上書いても説得力が増すとは思えないので、ここで筆を置きたいと思います。
 長々とお付き合い頂きありがとうございました。

この記事は場合によっては皆さんのご意見で私の意見が変わり書き換えられるかも知れないので、この記事の安定性は保証できないのですが、今の時点での私のスタンスをできるだけ網羅的に書いたと思うので、ご意見などがあればお気軽にお寄せ下さい。
 どうもありがとうございました。

※2点追記をします(2023年11月16日午前4時5分)

2点追記します:1点目:社会主義について

社会の組み方を「民主政治」と「専制政治」と書いていますが「社会主義がある」というご指摘があると思います。
 これについてはほぼすべての社会主義が血統による専制政治になっている現状を鑑みて「社会主義」を取り上げる必要性を感じなかったため省いています。社会主義については専制政治に堕していない国があるというご指摘があるかも知れませんが、私の認識ではポピュラーではなく、そして民主主義からの脱却先として検討に値する主義ではないと考えております。
 これはご指摘頂いたものではないですが、自分で読み返していて思ったので追記します。

2点追記します:2点目:制度の解体再設計について

問題の解決方法を政治マターとする姿勢は変わりませんが、「制度を変更する」のではなく「解体して組み直しては?というご意見があるかと思います。
 これについては現行で動いている制度をストップすると同時に切れ目なく新しい制度を立ち上げるのは実質不可能だと考えていて、それを行う強権を持つものは恐らく制度の解体組み直しについてはポジティブではないと考えます。
 再設計したほうがシステムのデザインが良くなるのはシステム改修においては非常に重要な観点ですが、解体再設計については「奪って」から「与え直す」手続きになるので実現性を担保できるとは考えづらく、今回は考えのなかに入れていません。
 これもご指摘頂いたものではないですが、自分で読み返していて漏れがあると思ったので追記します。

この記事を書いた人 Wrote this article

如月翔也

 ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。


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