以前の記事で僕のスタンスとしては「掛け算に順序を持ち込むのは教える都合のために単位x個数で教えたのが金科玉条になって”当然”となっている」としていたんですが、面白いツイートを見つけたのでそれをもとに考えてみようと思います。
面白いツイートとはこちらです。
算数(数学)というのは単に計算を教える学問なのではなくて論理的思考を育むことを目的としているわけ だから掛け算の順序はとても大事 1袋98円のポテチを5袋買う時の金額を求めるために5袋×98円なんて計算する?それだと答えが490袋とかいう謎の存在になるよ 算数は結果が合えばいいわけじゃない
— フーミン! (@fumifumi_1117) July 5, 2025
ツイートがうまく引用されなかった場合にそなえて本文を貼り付けます。
算数(数学)というのは単に計算を教える学問なのではなくて論理的思考を育むことを目的としているわけ だから掛け算の順序はとても大事 1袋98円のポテチを5袋買う時の金額を求めるために5袋×98円なんて計算する?それだと答えが490袋とかいう謎の存在になるよ 算数は結果が合えばいいわけじゃない
どこが面白いか解説します。
これについて、まず「算数(数学)というのは単に計算を教える学問なのではなくて論理的思考を育むことを目的としているわけ」→ここについては完全同意です。
「だから掛け算の順序はとても大事」→保留します。
「1袋98円のポテチを5袋買う時の金額を求めるために5袋×98円なんて計算する?」→します。というか、する場合もあるし、しない場合もあります。逆に言えば「11円のうまい棒98本買う場合」は98本×11円で計算したほうがわかりやすいですよね?
「それだと答えが490袋とかいう謎の存在になるよ」→なりません。この490袋になる論拠は「数学には順序が大事であり、全ての掛け算は単位×個数であるゆえに、順番が入れ替わったら490袋という答えになる」という意味です。
これはつまり、「A=1と仮定するとA=1である」としか言っていないので、仮定を裏付けません。
逆に、一番上にある「算数(数学)というのは単に計算を教える学問なのではなくて論理的思考を育むことを目的としているわけ」という事なのに「掛け算の入れ替え可能性(掛け合わせている数字の組み合わせが一緒であればどの順でも「結果は変わらない」)」という基本的原則を否定する意見であるため、これは要するに大原則を無視して細かい部分を主張しており、論理的に破綻しています。
つまり、この方の主張する「掛け算の順序の正当性」は、逆にイコールで「掛け算の順序の正当性」を否定しているのです。
私の主張としては
私の主張としては、実在の小学生教員さんが仰っている指導要領にある「単位×個数」で答えを求めよ、というのは
- 教員が指導するにおいてわかりやすい説明である
- 教えられる側(特に幼年と言って良い年代の子供)が「どっちを先にしてもいいよ」と言われると混乱する
- 故にまず「単位×個数」で教え、後で交換可能性を教える
- その時点で交換可能性から、「単位×個数」は「わかりやすく」教えるための手順論だったと判明する。本来そうだった事をこの段階で教え、交換可能なのでどの順でも計算していいよ、と教えなければならない
- しかしこれを教えていないか、十分強調していないため教えられた側から抜け落ちており、最初に教わった「単位×個数」が頭に残り続け、これが金科玉条となってしまう。
という問題だと思うんですね。
これはあくまでの僕の予想としての話なんですが、もし数学=mathの一般的定義だとすると、米国では個数×単位で表記・計算するほうが多い(例えば100mx4回走る競技は4x100mという競技名となる)ので、国が変わったら定義が変わるものは数学・算数の普遍的事実とは言えません。
この問題は2点あります
この問題については2点問題がありまして、
- 教えやすくするための方便としてのとりあえず「単位×個数」で考えようね、が算数的真実として受け入れられてしまう。本来は算数でも入れ替え可能性は教えるので、その時点で教えなければならないのだが、ちゃんと教えられていない。
- 「単位×個数」が絶対でない事を「掛け算の入れ替え可能性」を教えられた時に絶対的な条件ではないと「教えられた側が」気付かなければならないのだが、そこまでの論理的思考力を教育が与えられていない。
という問題なんですよね。
更に問題なのは、子供の頃に教わったので間違いない、と信じ切ってしまって、疑問を持つ事なく主張してしまい、そして主張の論拠が掛け算は「単位×個数」であると仮定すると入れ替えたら「単位×個数」と違う結果が現れる、という循環論法に陥っています。
これはつまり主張者さんの仰る「算数(数学)というのは単に計算を教える学問なのではなくて論理的思考を育むことを目的としているわけ」が失敗している端的な証拠になってしまっているので、主張が間違っている事を明確に表してしまっているのです。
この場合、本来の論理的思考で言うと、
・掛け算が「単位×個数」でなければならないと仮定すると、「1袋98円のポテチを5袋買う時の金額を求めるために5袋×98円と計算すると答えが490袋とかいう謎の存在になる」
・ゆえに掛け算が「単位×個数」でなければならないという主張は成り立たない
・従って掛け算が「単位×個数」であるというのは普遍的絶対的真実ではなく、ただ子供に「どっちからかけてもいいよ」と教えると1つの計算で2つの方法が現れるため、それを理解できる段階までの「方針」として教えていると考えるのが妥当である、という結論に達するはずなんですよ。
という訳でこのツイートでは私のスタンスは変わりませんでした。
という訳で、このツイートでは私のスタンスは変わりませんでした。
手続き論として「まずこう覚えよう」を叩き込んだ後、しっかり抜かなかったために最初に叩き込まれた事が絶対的真実だと思ってしまい、それがどうしても否定できないので破綻した論理にも気づかない結果になっているので、教える時に混乱を招かないよう「順序」を教えるのは否定しないんですが、その後掛け算の入れ替え可能性を説明する段階で「順序はわかりやすく説明するために教えたもので、実は掛け算はどの順序でかけても良いんだよ」をものすごくしっかり教えないと義務教育の敗北というか、義務教育が宗教めいた「順序」崇拝主義を産んでしまっているので、この点については非常に懸念点がありますね。
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如月翔也
ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。