こんにちは、如月翔也(@showya_kiss)です。
今日は自分自身で疑問に思った事をちょっと考えてみると、いろいろな人にエールを送る事ができる結論がでたので、ハッピーな人はよりハッピーに、そうじゃない人はこの文章を読む事で少しでも心が軽くなってくれると良いな、と思って書きます。
僕は音楽好きなのだろうか?
事の発端は、僕は人と一緒にいない時は基本的にずっと音楽を流しているのです。ただ、もうおじさんなので新しい音楽を取り入れる事ができず、青春時代から集めてきたCDをiTunesで取り込んだデータをなくさないよう大事に引き継いできて、それをシャッフルして繰り返し聞いているのです。
ちなみに僕より5歳上の嫁さんは米津玄師のコンサートとかにバンバン行く人なので僕が新しい音楽を取り入れられないのは年齢のせいではなく「そもそも新しい音楽に触れてこない」「去年せっかく新しい音楽を取り入れたのにそれは中島みゆきだった(僕の青春時代から歌ってらっしゃいますよね)」という事で、僕は基本的に新しい音楽をどんどん取り入れるタイプではないんです。数年に一度波が来て洋楽と取り込んだりはするんですが、常に新しい音楽を聞いているわけではないんですね。
そういう事実を考えた時、「はて、僕は音楽を常に聞いているが、音楽好きと言えるのだろうか?」と思ったのです。
僕の中の音楽好きのイメージは古い曲も大事にしながらどんどん新しい音楽に触れていってどんどんジャンルとアーティストを開拓していくイメージだったんですよね。
そのイメージで言うと僕は「絶えず音楽は聞くが音楽好きではないのではないか?」と思ったんです。
しかしよく考えてみたのです。
しかし、よく考えてみたのです。イメージで物事を考えると良くないので、理屈が成り立っているのかを考えたんですよね。
そうすると、僕の中ではこういう結論になりました。
新しい本はそんなに買わないけど、愛読書をまるで聖書のように持ち歩いて毎日のように読み返しては普段通りの安心感を得たり稀に新しい発見をして驚いたりする人は、読書好きだろうか。
僕は読書好きって言っていいと思うんですよ。
お寿司が好きって言っているけれど、経済的に裕福ではないのでお寿司が食べられるのは年に一度の誕生日、しかも回転寿司がやっとの人は、お寿司好きだろうか。
僕はお寿司好きって言っていいと思うんですよ。
TRPGの環境がなくなってしまって、今オフラインでもTRPGを遊ぶ環境がなく、そしてオンラインも自分の部屋を持たないが故に去年は1回しかセッションができず、自分の部屋を持っている長男の方が卓修羅なので近く経験セッション回数で負けるんじゃないか、という僕は、それでもTRPGのサイトを運営し、TRPG関係者をフォローし、人のプレイレポを眩しい目で貪るように読んだりする僕はTRPG好きだろうか。
僕はTRPG好きって言っていいと思うんですよ。野球だってプレイしないで見るだけで好きな人がいるんですから、今セッションできる環境がなくても好きって言っていいと思うんですよ。
つまり、この3つの結論から逆算するに、「〜好き」は頻度や回数・新しいものをどんどん取り入れる事によって表されるのではなく、本人がどれだけそれを好きと思っているか、行動が伴わなくても、行動を伴えるリソースがなくても、本人が「好き」だと思ったら、それは「〜好き」だと思うんですよね。
愛も一緒です。
好きを踏み込んで「愛している」というのも同じ結論で、本人が「好きを通り越して愛していると認識している」のであれば、それは本人にとって愛しているという事なので、他人がどう口出ししようと本人がそれを愛している事実は変わらないと思うんですよね。もちろんその愛ゆえに過ちを犯したとしたら問題ですが、過ちに至るような愛は愛と呼ばないのか、というと、本人にとって愛なのは覆らないんですよね。好き・愛しているのをジャッジできるのは本人だけで、他人がジャッジできるものではないので。
なので、今業界や推しに貢献できていなくても
なので、もちろん好きや愛が経済活動に結びつく時、業界や推しに貢献できるのは素晴らしい事なんですが、それができない現状があったとしても、あなたの「好き」「愛」が足りないわけではないのです。
宗教に例えるのは卑怯かもしれませんが、神様仏様を信じている時、お賽銭なり寄付なりを行う場合、その金額が信心の深さを表すものなのか、という点を考えて欲しいんですよね。そんなのお金を持っている人はいっぱい払って、お金があまりない人は小銭(流石に1円単位だと入金の手数料のほうが高くなるので100円単位では出したいですけどね)を出して、「熱心に祈る」事が大事だと思うんですよ。
信心の深さはいかに「熱心に祈る」事ができるかなので、お賽銭の金額は信心の深さを表さないんですよね。
むしろ大事なのは、神様仏様でも業界でも推しでも、「あなたに私は救われている。本当にありがとう」という事をしっかり意識して、そしてできればそのありがとうが他の人につながって宗教なり業界なり推しなりを布教できて、沼に1人連れ込む事ができればとてもいい事だと思うのです(ただ、宗教に関しては信仰の自由があるので他宗教を信仰している人にしつこく布教するのはやめましょう)。
今は日本が貧しいので
今は日本が貧しいので、例えば主婦の人はどれだけ経済しても推しのCDは1枚しか買えないかもしれません。読書好きでも新刊を買うお金がなくて中古本屋で本を買うか図書館で読むしかなくて作者の懐にお金を入れられない人がいるかも知れません。本当は映画館で映画が見たいけど月に何本も見ると予算がパンクするので結果サブスクやAmazon Primeで映画を見ている人もいるかも知れません。しかし、それらは全て悪ではなく、好きや愛がないわけでもなく、ただ単にそういう状況におかれているだけなので、それを恥じる事もありませんし、人と比べて惨めな思いをする必要もないのです。
そもそも気持ちは定量化できないので、人と比べる事ができないですし、比べてもいけないんですよね。それに対してマウントを取ってくる人は「人の気持がわからない人」なので、宗教なり作品なり推しなりを「理解できない人」なので、マウントを取っている時点で「好き」でもなければ「愛している」わけでもないのです。自然が作ったものを除き全てのものは人間が作っているので、人間の気持ちがわからない人間が、人間が作ったものの価値を正しく理解できるわけがないんです。なので、マウントを取る人間は完全無視で構わないのです。あなたはあなたで「それを好き」「それを愛している」のは誰にも否定できないし、その気持はあなたを支える大事な支柱ですし、その支柱を否定しようとする人間は人の心がないので相手にしなくて良いのです。世の中残念ながら「人の気持ちを考える」事ができない人の方が多くて、逆に本当に好きなものや愛するものを持つ人は他人を簡単に否定しないので一方的にやられる宿命を負ってしまうのですが、しかし好きなものや愛するものを持つあなたならば、やはり他人を否定せずマウントを取らずにただ純粋無垢な気持ちで「好きでいる」事ができるでしょうし、「愛し続ける」事ができると思います。
ですから、素直に考えて「やっぱり好きだわ」「やっぱり愛しているわ」と思ったら、あなたはそれを好き・愛しているで間違いないですし、他人にマウントを取られても傷つく必要なく、ただ普通に好きでい続ける・愛し続けていく事をすればいいのです。
という結論に僕は達しました。
僕は明確に言うと今できている事で言うと文章を書くのが好き、プログラムというかコードを書くのが好き、ゲームが好き、というのは継続してできているのですが、それに加えて無条件で音楽好きと公言しても恥ずかしくないな、と思いますし、TRPG好きと言っても差し支えないな、と思います。
比べて惨めな思いをするのは無駄に嫌な思いをするだけなので、マウントを取って優越感を得たいゴリラは基本的に無視して、好き同士・愛している同士でつながって、優しい世界を築いて行ければいいですね(同担拒否という人もいるので同じ好きでも繋がれない人もいるんですが)。
この記事を書いた人 Wrote this article
如月翔也
ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。