危険というエビデンスがなければ何でも安全な訳ではないので

こんにちは、如月翔也(@showya_kiss)です。
 今日は何を喋っても「エビデンスは?」と聞いてくる人にちょっとイラっとしたのでそれについて書いてみようと思います。

まず「危険だ」というエビデンスがあるものは危険なのです

まず大前提として、「危険だ」というエビデンスがあるものは危険なのです。ここを無視するとエビデンスの意味がないので、スピリチュアルな理由でエビデンスを無視する人は脳を虚空に預けているのでまず虚空から脳を取り戻して下さい。その上で、エビデンスがあっても私はそれをする、という確固とした意志のもとで行うかどうかを決めて下さい。

しかし「危険だ」というエビデンスがなくても危険な事もあるんです

しかし「危険だ」というエビデンスがなくても危険な事はあるのです。
 詳しく調べたわけではないのでエビデンスがあるのかも知れないのですが、例えばですね……(センシブな話題になるので先を読むか決めて下さい。スカトロ関係です)。

例えばですね、「大便を食べるのは不衛生で危険だ」というのは常識です。しかしこれ、エビデンスを取るの大変なんですよ。
 まず日常的に大便を食している人とそうでない人を比較して健康状態について把握しないといけないんですが、「そうでない人」は十分な母数が集まりますが「日常的に大便を食している人」を十分な数集め、経過を観察するのは大変です。
 世の中それなりにスカトロ趣味の人がいるのかも知れませんが、実験への応募はスカトロ趣味のカミングアウトになるのでかなりの覚悟が必要です。それで十分な数の被験者を十分な期間拘束できるでしょうか?
 これではエビデンスはとれないんですが、しかし常識として「大便を食するのは不衛生で危険である」のは変わらないんですよ。

もちろんできるだけエビデンスを確認するのは大事な態度です

無論色々な事に対してエビデンスを確認する、というのは慎重な行動ですし、思い込みを排して事実ベースで物事を確認するという事なので褒められるべき態度なのですが、「エビデンスがないのでノーゴー」は良い態度ですが「エビデンスがないのでゴー」はとれないエビデンスを探して危険に踏み込んでいる可能性があるので、エビデンスは魔法の呪文ではない事を考えて欲しいです。
 エビデンスですら「人が確認した事」であり、結局その確認は本当なのか、信憑性があるのかは「自分で判断」するしかないので、エビデンスにすら脳を預けないで自分でちゃんと考えるのって結構大事ですよ。

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如月翔也

 ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。