内心の自由を思い出せ

 基本的な事なんですが、人は言動に出さない限り何を考えても自由です。何を考えても、です。

 どんなにインモラルな事を考えようとも自由です。なぜなら、「考えたかどうか」は本人にしかわからない事で、それに対して裁きを下す事はできないからです。

 「お前はこう考えたに決まっている!」と決めつけて罰する事を許すと、どんな無茶な絡み方も可能になるので、それが許されない事はわかりますよね?

 そして「こう考えたに決まっている!」という決めつけが悪い以上、本人が否定したらそうであるとは言い切れない「こう考えた」という部分は罰せないのです。

 あくまで罰せられるのは「こう考えた」結果行う「行動」であって、考え自体が罰せられるのではありません。逆に言えば行動を起こさなければ何を考えても自由なのです。

 人間には内心の自由があり、何を好もうと何を考えようと自由なのです。問題になるのはあくまでその結果である「行動」であって、考えそのものはなにをどう思っていようと自由なのです。

 しかし最近というか一定の範囲にいる人で、「キモチワルイ事を考える人は悪い事をする可能性が高いので規制すべき」みたいな事を言い出す人がいるんですが、キモチワルイと考えるのはもちろん自由なんですが、「規制すべき」という論を挙げるのは行動なので批判すべきだと思っていて、その言い回しは「車の運転をする人は車の事故を起こす可能性が高いので免許は誰にも取らせないべき」というのと一緒で、知らない人より知っている人のほうが犯罪を犯す可能性は高いかも知れませんがそれを規制する事によって誰が守られるのか、という部分を考えるべきだと思うんですよね。

 人の自由を蹂躙する傍らで守りたいのは自分の「キモチワルイ」という感情だけ、という話であれば、そんなあなたはキモチワルイので蹂躙されて下さい、という帰結になるので無理筋じゃないかと思うんですよね。人の自由を蹂躙してまで得るべき大きな命題なのか、という部分を考えると、あまりにも「人の自由」に対して気軽すぎるんですよ。

 あなたが「キモチワルイ事はキモチワルイ」と宣言できるのはあなたに自由があるからで、例えば独裁政権下にある国で独裁者をキモチワルイと思った時にキモチワルイと言えないのが自由の蹂躙なのです。あなたはその独裁者になろうとしている、という事に気づいていますでしょうか?

 自由は人を殴る棍棒なのではなく、自分を振り返るための鏡なんです。「あなたが何をどこまで許せたか」が自由の本質であって、それを保ちつつ「あなたが何をどこまで守れたか」を考える順番でないと、自由は人を殴る棍棒になるのです。

 まあ殴られてみないと自由の棍棒の痛さはわからないかも知れないんですが、つい最近までLGBTは異常、脳手術で矯正すべきっていうのが自由の棍棒だったんですよ……。ありえなくないですか?

 そして今私達がしている事が10年後50年後に「ありえなくないですか?」と言われていないとは限らないんです。自由は進むものなので、自由が正しく動いている限り10年後50年後100年後の未来はもっとおおっぴらにして許されるものが増えているはずなんですよ。

 今当たり前に「これは駄目だ」と思っている事が明日はそうじゃないかも知れない、そういう前提で考えると、内心の自由って凄く重要じゃないですか?

 そこを気軽に踏みつけようとするのは自由を締め出す行為なので、まあそれをしたいと思うのは自由なんですけども、実際にそうしようと行動するのであれば私は声を大にして反対します。必ずです。

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如月翔也

 ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。